なかったかもしれない本当のこと――KUNIO10『更地』

 2021年11月14日に、KUNIO10の『更地』(作:太田省吾、演出:杉原邦生、出演:南沢奈央濱田龍臣)の千秋楽公演を、世田谷パブリックシアターで観てきた。杉原邦生の演出は、(たしか)二年ほど前、横浜に引っ越したころに神奈川芸術劇場にかかった『グリークス』がすごくよくて、それ以来気になっていた。とはいえ前作がギリシャ悲劇を全部繋げましたみたいなほぼ1日がかりの大作だったのに対し、今回は出演者がたった二人のミニマルな芝居ということで、太田省吾についてもほとんど何も知らず、どんな感じになるんだろうと新鮮な気持ちで出かけた。

 

 

 『更地』は二人の子どもを育て終えた初老(?)の夫婦が、かつて自分たちの家があり、いまは「更地」となっている場所に旅して、そこで自分たちの来し方を辿り直す、という物語だった(手元に台本がなく思い出しながら書いているので、記憶違いやとんでもない誤解があるかもしれないがご容赦を)。四角い舞台に「更地」と大きく書かれた布が敷かれており、数個のブロックやシンク、便座など若干の家具が家の間取りを思い出しながら配置されていくのだけれど、途中でそこにさらに今度は黒い「更地」布がばさっと掛けられる。会場配布のパンフレットによればこの大きな布が、初演以来『更地』のトレードマークのようなものらしい。

 冒頭で二人が家のミニチュア模型を手に、家屋がどこかへ飛んでいった顛末をみじかく語りながら、雪が燃えてランプがついた、しかしそのことを言葉にすると(だったか、認識すると、だったか)火は消えてしまったと述べる。ここですでに、ありえないようなことが確かに起こった、けれどもそれはそうと意識しただけで消えてしまうようなものだったという、出来事のきわめて曖昧なステータスが提示されている。

 二人は妻が作ってきた弁当(伸びたスパゲッティ)を、箸を忘れたために手で摘んで食べるなどしながら、ここに寝室があった、ここで何をしたなどと、ブロックやごく少数の家具をつかって家の間取りを再現する。夫が生活習慣を改善しようと思うというようなことを言い出し、二人はつかの間、早起きした夫婦が交わす想像上の会話を誇張的な仰々しい喋り方で試みる(こういうことは実際たまにあって、以前とある飲み会で、社交辞令的な会話が上手くできないという話から、「こんにちは。今日はいい天気ですね」と練習して大笑いしたことがあった)。やがて二人は格子(窓枠?)を手に持ってかつての自分たちを「覗き見」、あの時わたしが笑っていたのは実はこういう理由だったのだなどと話すのだが、そのうち妻が自分は覗き見られる側になりたいと言って、夫が持つ窓枠の「向こう側」に移動する。過去の自分を演技することでかつてあったことを確かめようとする試みが、こうして本格的にはじまるのだ。

 この過去への遡行は夫婦生活にとどまらない。自分は存在したのだ、生まれたのだ、という話の流れから、二人はハイハイする赤ん坊にまでなりかえる。「あぶあぶあぶあぶ」と連呼しながら四つん這いで歩きまわる南沢奈央(1歳)が、機嫌を悪くしひっくり返った亀のようになって泣きわめく濱田龍臣(1歳)に気づいて、「あぶ? あぶ?」と首を傾げるところは笑えた。南沢がさきに立ち上がって「もう16歳なのよ!」と言うと、そこから二人は思春期に入っておのおのの初恋を、そして二人が出会った蝉の鳴く夏をたどりなおす。ここではいかにもロマンチックな蝉ラップソングが歌われるのだが(「蝉の鳴き声が体に沁み入る、そして息が荒くなる」とかなんとか)、煽ってくるなあと思いながらふつうにうるっとしてしまう。まあこういう箇所はある種の緩めパートとして、このあとの緊張感みなぎる展開への助走として役立つという効果もあるとおもう。

 この一連の展開を見ながら、ぼくは『グリークス』よりもさらに数年前にどはまりしていたウォン・カーウァイの映画を思い出した。『花様年華』で、それぞれ配偶者と共にとあるアパートに引っ越してくる既婚の男女(トニー・レオンマギー・チャン)は、互いの配偶者が自分たちを裏切っておこなっている不倫を、彼らはこういう風に親しくなっていったのではないかと、想像上の模倣を試みることで推測する。それはあくまで背かれた者たちの演技、作り事にすぎなかったのだが、しかしそれ自体がいつしか本当の愛になってしまうのだ。彼らはそのまま、迫りくる自分たちの別れも、演技で予行演習する。それが演技であることの意味は本当の悲しみを予防的に回避することであるはずだったのに、二人の偽れない感情がもっとも昂ぶるのは、まさにこの演技の最中である。

 カーウァイにとって「個室」は特権的なモチーフで、その虚構としての真実、真実としての虚構は、狭い部屋の内側の、閉所恐怖的な空間にこそ生じることになっている(これについては以前『エクリヲ』webに「『個室』の変容を求めて——ウォン・カーウァイ全作品論」というタイトルで書かせてもらった)。今回の芝居にも似たところがあり、そこはいまとなっては何もない「更地」で、二人は演技をしているにすぎないのだけれど、しかしそこはかつて家だった四角に囲われた空間で、この場所に二人は何か本当のことを見出しそうな気持ちになっている。どうしてただ思い出すだけではだめで、二人は「更地」に来なければならないのか、過去を一旦演技で受け止め直さなければならないのか、そのとき虚構はどういう機能を果たすのか。これは最近考えているテーマなのだが、思えば当時気になっていたカーウァイの「個室」がすでに虚構と密接に結びついた空間でもあったのだということを思ったりしていた。

 同じくカーウァイの『恋する惑星』では、一目惚れした女が男の部屋を勝手に模様替えしてしまうことで、男の欲望が気づかないうちに変形し、やがてそれが現実化するということになっている。これが未来に向けた「個室の変容」なのに対し、『花様年華』の不倫再現パートや『更地』のやり直しは、基本的に過去に向かっている。では『更地』における過去の虚構化によって、トニー・レオンフェイ・ウォンをいつの間にか本当に好きになってしまったことに対応するような仕方で、過去の何かが「変化した」ということはあるのだろうか。

 ここで起こっているのは、過去の「解釈」の変更ともすこし違うことだ。たしかに過去をやり直してみることによる発見もあるにはあって、じつは妻がぐいぐいキスを迫ってくる乱暴な男の子に実際にキスを許していた、どころか自分としても満更でもなかったのだとか、どうやら妻は子どもに対する夫の態度に不満があったらしいとか、そういう新事実の発見やそれにともなう過去の見え方の変化も生じはする。けれどもこれらはごく挿話的なことに過ぎなくて、舞台上で起こることの中心にあるのは、生まれてから二人が出会うまでの、二人がその家で暮らしはじめてからこれまでの人生を、虚構として、自分たちによる自分たちに向けたお芝居として、ただ生き直すということだ。どういうわけか、小説の基本的な時制は過去ということに決まっている。これは考えてみると存外面白いことで、原理的にはそうでなければならないわけでもない(実際現代では現在時制の小説もよく見られるようになった)のに、なぜかそうなっている。~ということがあった、~ということがあった。ただそういう風に語り直すだけで、記憶が、出来事が、虚構に一歩ちかづく。過去に起こったことが変化するわけではなく、なにが起こったのかをめぐる理解が変わるわけでもない。いまは更地となったこの場所でかつて起きたこと、ただその現実としてのステータスが、変化を被るのだ。

 配役もこの感覚とつながっている。本来なら二人の子供を巣立たせた後だから若くても50歳かそれくらいの男女が演じるべきところ、今回のペアは31歳(南沢)と21歳(濱田)なのである(というかいま検索して知ったのだが、濱田龍臣、若い!!)。時系列的に正しく「初老の夫婦」なら、遠い過去を思い出す記憶のニュアンスが強く出たのかもしれない。けれど今回の配役では、過去を辿りなおしている二人のその現前のほうが明らかに際立つ。それに、こういう時間的なブレは台本が積極的に喚起するところでもある。二人の口癖に「15秒」というのがあって、彼らは何かあるごとに「15秒待って」とか「15秒で~するから」とか言うのだが、これは実際には5秒にもなれば20秒にもなるのである。過去に起こったといま言うことが何らか虚構性の端緒になるのだとして、それはこういう伸縮性のある時間のなかで展開するのだ。

 しかし虚構であればこそ(という風につながるのだとぼくは思ったのだが)、それは本当に起こったのかという不安が頭をもたげてくる。妻はいささか改まって、二人しか知らないことは本当はなかったかもしれないことだと(たしかそうらしいのよという感じで)切り出す。戦争はあった。みんなが知っているし、教科書にも載っている。家族で行ったピクニックもあった。戦争ほどではないにせよ、それでも子供二人、それに家の留守を頼んだ近所の人が知っている。でも、二人しか知らないことは、なかったかもしれない。

 こういうことは、目撃者が少なくてもせめて、言葉にしやすく、慣習として認識されやすいことだったら、防ぎやすいのだろう。だから人は「夫婦」になったり「~友」になったりして、「なかったこと」になってしまう不安を解消しようと努力するわけだろう。にもかかわらず、これはみんなもやっているあれと名指せない逸脱が、「二人しか知らないこと」が、介在しない関係などあり得ないし、その領域は往々にして親密さとともに拡がっていく。

 二人しか知らないことは本当はなかったかもしれないことなのだと言った妻はつづけて、それでも自分は本当のことが欲しいのだ、と訴える。本当のことが欲しい。でもそれは戦争のようなこととは違う。ピクニックとも違う。本当のこととは、ほとんどなかったようなことなのだ。ここに至って、最初「二人しか知らなかったこと」の性質とされたことは、「本当のこと」の定義になっている。それでも、と言葉に詰まりながら口にされるのが、この一連の台詞のクライマックスだ。でもそういうことがたくさんあれば、たくさんあれば……それは本当のことになるかもしれない……。

 妻が最後にすがるようにして持ちだすのは、ある意味で身も蓋もない、純粋な物量というアイディアだ。一つ一つが「ほとんどなかったこと」だとしても、それがたくさんあれば、「本当のこと」になりうる。ここには一種十九世紀的ともいえる「嵩」への訴えかけがあって、自由意志をもつ人間を生み出そうという壮大な計画の失敗がすべてを無に帰してしまうとしても、客席にひたすら座り続けた観客の首や腰の痛みにおいて、たしかに何かがあったのだ。物語はまず九〇〇頁という厚さにおいて、四夜連続十五時間という長さにおいて、「本当」なのだ。そこでなされているのはいわば捨て身のフィクションの存在証明で、仮にその真偽にかんして第三者の証言や当人たちの記憶(どちらかが死んでしまったらどうするのか!)があてにならないとしても、なお「たくさんあれば」あるのだ、という妻のこの発想に、ぼくは説得されてしまった。

 妻はこの一連の発言を(たしか)舞台の左手前から、右奥へと退いていく夫に向かって投げかけるのだが、ここは妻と夫の認識の齟齬を表現した場面として見ないほうがおもしろいとぼくは思った。たしかにそういう見方を誘う面もあって、子供への関心度の差が妻の不満をつうじて表面化するとか、夫がこの辺りの妻の発言を軽視しているようなそぶりを見せるとか、おそらく意図としてはそういうことも想定されているとは思うのだが、しかしこれこそ演出家謂うところの「昭和の匂いがする」要素でいささかわかりやすすぎる。むしろここで何度も言い澱みながら台詞を口にする南沢が、意識の二割くらいを観客に向け、その場にいるすべての人を巻き込んで祈ろうとしているように見えたことが何よりも印象的だった。「ほとんどない」ことは、フィクションとしてやり直したことは、一方ではどこまでいっても「本当のこと」になりようがないのだが、それをたくさん積み上げることで、「本当のこと」であって欲しいと広がりのある空間に向けて祈る限りにおいて、その存在としては本当になる。役者の吃りに自分も息が詰まるようで、感動が抑えられなかった。

 このクライマックスのあとで、二人は舞台の冒頭近く、「更地」にやってきたときの最初の会話をもう一度やりなおす。ここでは家があったころのことをやり直すのではなく、もはやこの芝居のなかで起こったことをたどりなおすことになっている。「ううん」というイン・メディアス・レス的な何のことやらわからない否定から始まり、妻が夫におんぶして欲しいと頼んで、背中の上から空に浮かぶ「お月さん」を見るよう夫を促す。むかしと違い屋根がないから、空を直接見ることができるのだ。月についてのやりとりの後おんぶを解くと、二人は今度は空に浮かぶ満天の星に気づく。舞台が暗くなり、プラネタリウムのように星がまたたいて見える。豆電球をたくさん吊るした感じ(?)の簡単な装置だったと思うのだが、三階席から観ていて目線の高さに無数の星が光り、とてもきれいだった。そこで妻が嬉しそうに言う「ここから星を見たのは初めてだ」というような言葉が、この作品の最後の台詞だ。

 星には慣習上さまざまな象徴性がありえ、この月から星へというエンディングには、到達不可能性とか(『星を追う子ども』)、在不在をめぐる認識の不確かさだとか(『星の子』やら『美しい星』やら)いったことも関係ありそうではある。たださっきも言ったように、このラストの幸福感にコミュニケーション不全や認識の齟齬の影を見るようなアイロニーの読み取り方は、なんとなくポイントを外しているような気がする。むしろぼくが重要だと思うのは、星の複数性だ。「たくさんある」という複数性、祈りを共有する観客の複数性、それに、繰り返される演技によるフィクションの次元の複数性。二人の生活を演技としてやりなおすことでそこに「ほとんどない」「本当のこと」を見出すとき、それは原理的にいって何重にも演技でありうるし、実際九十分に満たない短い時間の中ですら、「お月さん」のやりとりがやり直され、それが「星」をめぐる変化を招き入れている。

 この演技があったからこそ変われた、「星」を見ることができたと同時に、それは何にでもなれるという全能感ともちがう手触りのものだ。むしろそれは九十分かけてやっと二回の、そして最終的にただ星が大量に在るということの、ずんぐりして鈍臭い「存在」の発見に帰着している。しかし、どこかにこういう「嵩」としてあるとしか言えないものを含むのがフィクションというものではないか。それがこの芝居を観ながら最後に考えたことだった。二人しか知らないこと、それはほとんどなかったかもしれないことだ。認識する主体の数から言えばそれはあまりにも弱々しいものだ。けれど、にもかかわらず、それは量的にこそ、存在をたしかめることができる。この逆説に目を向けたとき、南沢の口にする「たくさんあれば」という言葉が、それに応えるようにまたたく無数の星が、二人の暮らしがたしかにあったことを証立てる虚構として、ずっしりと重い意味を持ちはじめる。