『君の名は。』論 番外編――クリストファー・ノーラン『インセプション』における新海的感覚

 前回は『君の名は。』について詳しく書きましたが、今回は番外編ということで、新海誠からの影響を受けているとされるクリストファー・ノーラン監督の『インセプション』に登場する短い台詞について書いてみようと思います。『インターステラー』における、時間が離れていってしまうというモチーフが、『ほしのこえ』からの着想だということが言われているようですが[1]、話の作りとしては『君の名は。』にもかなり似ています。男女が距離と時間に引き裂かれて、一瞬奇跡的な出会いをして(片割れ時/5次元空間でマーフと交信)、最後にもう一度出会う。影響関係というのはそう単純に言えないのが常ですが、今回は新海誠の方があとなので(『インターステラー』は2013年)、逆方向の影響があったという可能性も十分考えられそうです。

 それはともかく、『インセプション』は、ディカプリオ扮するコブとその仲間たちが、意識の深層に降りていって、ある会社の若社長に自分の会社を捨てるというアイディアの種を植え付ける(この「アイディアの種を植え付ける」ことが「インセプション」)話ですが、コブには自分のインセプションによって妻を亡くした過去がある。一緒に意識の世界を探求していたコブと妻のマルですが、マルはいつしか意識の世界に取り憑かれてしまい、現実世界には戻りたくないと言い出す。そこでコブは、「意識の世界で死んで現実世界に戻らなければならない」というアイディアを植え付ける(インセプション)わけです(意識の世界で死ねば現実世界に戻れるというルール)。 

 意識の世界で死ぬシーンが、今回取り上げたい場面です。

 

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二人が喋っているのは次のような内容(日本語は私訳)。

コブ:君は電車が来るのを待っている。遠くに連れて行ってくれる電車を。君はこの電車にどこに連れて行ってもらいたいか知っている。でもどこなのかはっきりとは分からない。けどそんなことどうだっていい。なぜだか言ってみて。

マル:あなたと一緒だからよ。        

Cobb: You’re waiting for a train. A train that’ll take you far away. You know where you hope this train will take you. But you can’t know for sure. Yet it doesn’t matter. Now tell me why!

Mal: Because you’ll be together

ここ、コブは結構難しいことを言っていると思います。「遠くに連れて行ってくれる電車」が来ると知っていて、「どこに連れて行ってもらいたいか」も分かっている。けれども行き先だけがはっきりしないのです。3文目は英語で見ると、短い文ながらYou knowのなかにwhere you hopeがあり、さらにその中にthis train will take youがあるというように3層の複雑な構造になっている。you hopeを取り除いたYou know where this train will take you.「君はこの電車がどこに連れて行ってくれるか知っている」と比べてみると、ここでは「ある場所に行きたいと望んでいる(hope)」という感覚だけは確かにあるが、その「ある場所」がどこなのかは分からないというやや逆接的なことを述べていると分かります。

 ここまで来ると、何となく前回書いた三葉と瀧の関係を思い出さないでしょうか。「あの人を好きだ」という感覚はあるが、「あの人」の「名」は分からない。「あの場所に行きたい」という感覚はあるが、「あの場所」がどこかは分からない。その意味で、コブとマルのこの台詞は、新海的なある種の関係性を思い起こさせるものだと思います(もちろん前者は人、後者は場所なので完全一致ではないです)。

 ただ、いくら「あそこに行きたい」という感覚があっても「あそこ」がどこだか分からなければやはり不安定さは残るわけで、ノーランはこの点を拾い上げて上手く展開しています。鉄道の場面での「行き先」は、ストーリー上は夢から目覚めた後の、子どもたちの待つ現実ということになるはずです(先にも言ったように、意識の中で死ぬことは現実に戻ることを意味するので)。けれど妻を現実に引き戻そうとするコブですら、実は「どこなのか」を「はっきり」問わないで「一緒だから」という理由でごまかすことで、「現実」を直視していないようでもある。マルは現実に戻ってからも「死んで夢から覚めなければ」と思い続けついに自殺しますが、そのとき彼女はここでの鉄道の台詞を繰り返します(最後の50秒くらい)。

 

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マル:あなたは電車が来るのを待っている。

コブ:マル、おい、やめろ!

マル:遠くに連れて行ってくれる電車を。

コブ:ジェイムズとフィリッパが待ってる![注:この二人はコブとマルの子ども]

マル:あなたはこの電車にどこに連れて行ってもらいたいか知っている。

コブ:あの子たちは待ってるんだ!

マル:でもどこなのかはっきりとは分からない。

コブ:マル、おれを見ろ!

マル:けどそんなことどうだっていい。

コブ:マル、やめろ!

マル:あなたと一緒だからよ。

コブ:マル! こっちを見て!

マル[ 飛び降りる ]

コブ:マル、やめろ!

Mal: You’re waiting for a train.

Cobb: Mal, goddammit!  Don’t do this!

Mal: A train that will take you far away…

CobbJames and Phillipa are waiting!

Mal: You know where you hope this train will take you...

Cobb: They're waiting for us!

MalBut you can't know for sure...

CobbMal, look at me!

Mal: Yet it doesn't matter...

Cobb: Mal, goddammit!

Mal: Because you'll be together.

Cobb: Sweetheart! Look at me!

Mal [Jumps off of the ledge]

Cobb: Mal, no! Jesus Christ! 

ここでの「行き先」は、今度は本当の「死」で、「戻るべき現実」などではないわけです。皮肉なことにこの逆転を、マルを現実に戻すために用意したコブの台詞自体が、「行き先」を曖昧にしたことによって招いてしまっている。アイディアの植え付けが思わぬ暴走をしてしまったというのに留まらず、マルの自殺を許すロジック自体がコブの台詞に含まれていたということになるわけで、妻の死以前の時点におけるコブの弱さが、ここにほのかに表れているでしょう。

 というわけで、ノーランはこうした関係の魅惑と同時に不安定さにも光を当てているように思うのですが、翻って『君の名は。』はどうでしょう。もちろん「入れ替わり」の話ですから、その設定を三葉と瀧の「名前」の不安定さ(不確実さ)が支えているということは言えるでしょう。それから、前回論じた瀧のアイデンティティの希薄さがわざわざ入れ替わっているときに指摘されているというのも、「自分」の不安定さを示すのに一役買っている気がします。他方、意識のなかでのマルとの最後の別れを経てコブを完全に現実に取り戻すことで、この不安定さの崩壊と解消を図るノーランに対し、新海は最後までこの不安定さを温存しながら(携帯に名前を残さないどころか、片割れ時にすら結局名前を書かない!!)、かつ、そうだろうと何だろうと駅で一瞬見かるだけで再び出会うには十分なのだ! という姿勢に見えます。良くも悪くも(前回述べた通りぼくは批判的ですが)、ここは新海のオリジナルな部分と言えるかもしれません。

 

 ちなみにこれは蛇足ですが、最初に触れた『インターステラー』で、ノーランは『君の名は。』 にひじょうに似通った構図の物語を展開しながら、中心にある男女の関係を父と娘に設定し、最終的に両者の年齢を逆転させ、ロマンチックラブの問題は遠い宇宙のブランド博士の星に持ち越させています。主要人物は誰も死んでいないし、奇跡の再開も果たすし、人類も助かるし、れっきとしたハッピーエンド。しかしそれでいながらこのラストには様々なレベルでの微妙なずれ、家族や愛の問題などが詰まっている。ここからも、ハッピー/アンハッピーの二項対立で『君の名は。』のラストを納得しようとするのは不十分だということが分かると同時に、『君の名は。』の安直さが見えてしまうように思います。

 

[1] https://mobile.twitter.com/shinkaimakoto/status/532040860343345153