「ノンセンスとは究極の秩序である」応用編――将棋AI(人工知能)について

 

 先日NHK出版note「本がひらく」にて、エリザベス・シューエルの『ノンセンスの領域』を紹介した。

           

彼女のノンセンス論は『不思議の国のアリス』論として啓発的であるにとどまらず、そこから派生して自由な思考を刺激してくれるおもしろさがある。記事では字数の関係で(かつあまりに自分の趣味に寄りすぎるので……)触れられなかったため、ここでは応用の一例ということで、昨今話題の将棋AI(人工知能)の語られ方にも「センス」と「ノンセンス」の発想が見られることを書いてみたい。将棋をまったく知らない方にも伝わるように、それどころかあわよくば将棋自体にも興味を持ってもらえるように書いたつもりなので、そういう方もぜひ以下で最低限の予習をして先に進んでくれるとうれしい。

将棋を知らない方のための基礎知識:将棋は9×9の盤上で8種類、合計40枚の駒を交互に動かして、先に相手の「王」をとった方を勝ちとするゲーム。相手の「王」を早く取ろうとする動きが「攻め」、自分の玉が取られるのを遅らせようとする動きが「受け(守り)」。シンプルなゲームに見えてその可能性は膨大で、ゲーム中に現れうる局面の数(10の226乗)はこの宇宙の原子数(10の80乗)よりも多いらしい。ちなみに西洋版将棋であるチェスとはルイス・キャロルは関わりが深い。

将棋AIについての基本情報:現在人間が将棋AIに勝つことは考えられないが、つい最近まで、コンピュータがプロ棋士に勝つほど強くなるなどありえないと考える人は少なくなかった(ウィキペディアの「コンピュータ将棋」のページに1996年に行われたプロ棋士へのアンケートの結果がまとめられていておもしろい。羽生善治が正確な予言をしていたことがよく話題にされる。(https://ja.wikipedia.org/wiki/コンピュータ将棋#2004年以前))。「人間対人工知能」という図式が成立した期間はひじょうに短く、2013年に両者の実力が拮抗していることがプロ棋士の口から語られるようになってから、2017年に佐藤天彦当時名人が第2期電王戦で将棋ソフトponanzaに二連敗を喫しもはや人間がコンピュータと「対戦」することには意味がないと理解されるまで、その間わずか数年だった。以降は研究のための道具という認識が一般的になっており、現役の棋士でAIをまったく使わず研究している人はほぼいないのではないか。

 ただし、そうはいっても将棋の必勝法はいまだに見つかっていない。局面数の膨大さから、全局面を解析し尽くすことは現実的ではないらしく、実際いまでもAIは日々将棋が上達している。

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「将棋のルール.com」より(https://www.shogi-rule.com/koma_shoki/

 

シューエルの「ノンセンス」(復習)

 まずはシューエルのノンセンス論をかんたんにおさらいしておこう。シューエル曰く、一見混沌として無秩序に見える「ノンセンス」の本質は、実のところ「秩序」である。それは論理、ルール、明晰さの世界であり、個別の単位、部分が優越している。対して「センス」は調和、混沌、部分と部分が溶け合った先にある全体性であり、その意味でむしろ「無秩序」である。

 たとえば、「薔薇のように真っ赤な林檎」という表現を考えてみると、「薔薇」と「林檎」は赤さという性質を介して強く結びついている。薔薇の刺々しさ、林檎のもつ原罪の象徴性などが混ざり合い、さまざまな意味が生じてくる(この意味で、成功した比喩というのは「センス」だということになる)。

 対して、「うなぎを鼻先にのせるウィリアム父さん」(第5章)はどうだろう。うなぎとウィリアム父さんの間には、共通性も対比もなく、鼻先にのった「うなぎ」は「ウィリアム父さん」のいかなる性質も説明していない。「a+b→c」とならず、「aとb」はただは「aとb」でしかないという状況、これがノンセンスのあり方だ。

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「点」の思考と「線」の思考

 AIの長所を説明するとき、プロ棋士はよく「点」と「線」という表現を使う。一般に人間が得意とするのは「線」の思考であり、将棋を教わるときにもこの意識が重要だと説明される。例えば一手前に攻めの手を指したのにその次に受け(守り)の手を指したら、どちらも中途半端になってしまう。一手前には右側を攻めたのに次の手で左側を攻めたら、右側を攻めた手が無意味になってしまいかねない(こういうのを「一手パス」と表現したりする)。そこまでの経緯を生かし、それがその後につながるように、流れを意識して指し手を考えるとよい、というのがこの「線」の思考の骨子である。

 対してAIの思考は「点」の思考であり、これこそがAIの強みである。AIは手が指されるたびに局面を読み直すので、それまでの「流れ」に判断を左右されない。「線」の思考はあくまで当てはまる場合が多いというだけの原則にすぎないわけで、実際には、右側を攻める手を直前で指していたとしても、直後の相手の指し手によって、左側を守ったほうがよい状況が生まれているという可能性はあるわけだ。このとき人間は、つい直前までの右側を攻めるという方針に後ろ髪を引かれてしまう。「線」の思考が仇となるわけである。

 この人間の指し手とAIの指し手、「線」の思考と「点」の思考は、そのまま「センス」と「ノンセンス」の特徴に対応する。本来非連続であるはずの「手」(1手目と2手目の間に1.4手などはない)が、「線」の思考では互いに溶け合って「意味」や「物語」を生じさせ、有機的な調和を志向してしまう(=センス)。対して「点」の思考では、あくまで非連続な一回ごとの「手」があるだけであり、百回指したら百個の独立した場面、「部分」があるだけである。何より、実際に勝つのはAIなのだから、「秩序」は圧倒的に「点」の側にある(=ノンセンス)。

 しかし、ここからが重要なのだが、この結果としての「秩序」は、内実を見てみるとむしろ「無秩序」に見える。将棋AI製作者の山本一成は『人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?』(ダイヤモンド社、2017年。名著。オススメ)で、機械学習における「黒魔術」という概念を紹介している。プログラムが自動で対局して自身を改良していく機械学習においては、プログラムの実力が人間を超えすぎていて、調整されている個々の数値やその組み合わせがなぜそれでいいのか、そもそもそれは具体的に何を意味する数値なのか、制作者にすらよくわからないらしい。その設定でうまくいく理由はせいぜい「実験してみたらうまくいった」としか言えず、それは人間の目には、理屈で説明できる合理的な事象ではなくむしろ暗闇のなかで行われた魔術のように見える。

 これこそAIの「点」の思考がノンセンスに通じる第二のポイントである。「点」の思考は生半可な秩序ではなく「究極の秩序」なので、アリスのパロディ詩と同様、支離滅裂で理解不能なのだ。こうして「人間=線=センス、AI=点=ノンセンス」と整理してみると、現代の技術、人工知能の話にまで通じるシューエルのノンセンス論の射程の広さが見えてこないだろうか(実際キャロルは数学者、論理学者でもあり、コンピュータ技術に通じる知の系譜の属する学者だった)。

 逆に言えば、この数十年AIの実験場となってきた将棋などの(それ自体では古くからある)ボードゲームは、こういう視点で楽しむこともできる。優れた詩人が必ずしも優れた詩の書き方を説明できるわけではないのと同じで、プロ棋士が必ずしも将棋やAIの仕組みを明晰に説明できるわけではないが、人並外れて鋭敏な感覚をもつ棋士の言葉が、AIと人間をめぐるある種の真理に触れているように思えることは多い。将棋観戦には誰が勝った負けただけでなく、このように棋士の言葉を「読解」する楽しみもある。(興味を持たれた方はとりあえず日曜日の午前中3チャンネルをご覧あれ!)

 

ノンセンスは学べるか

 この「支離滅裂で理解不能」という点は、将棋AIの使用の現場に関していうと、研究や教育の問題に直結する。なぜならいくら結果がわかっても(正しい手を知ることができても)プロセスが理解不能では、結局実戦では役に立たないからである(この手を相手が指せば自分が有利になることだけを知っても、こちらが具体的にどう指せば局面を有利にできるのかがわからなければ意味がない)。これはおそらく数学の証明問題のようなもので、かりに全員が同じ結果を手にしてもそれを証明できるかどうかはその人次第、どう証明するかも棋士によって差が出るので、そこがいわゆる研究力の差ということになるのだと思われる。

 あるいは、事前に想定できる場面を離れたあと、未知の局面に突入したときの実力を、AIから学ぶことで伸ばせるかという問題もある。豊島将之九段(彼には頑張ってほしい……)が「AIから中盤の力強さのようなものを取り入れたいと思ったがあまりうまくいかなかった」というようなことを何かのインタビューで言っていたが、具体的なパラメータ(これを指標にすればいい、というようなこと)はAI製作者にすら理解できないということになると、結局棋士は「感覚」を身につけることを目指すしかない。しかしそれは「羽生善治先生の感覚を身につけたい」と同じといえば同じなわけで、やること自体は以前と何も変わらないようにも思える。

 だから誰でも世界最強の将棋AIを一家に一台備えつけることが可能になった現代でも、プロ棋士「線」の思考による指導(いわゆる指導対局)には需要があるわけだが、将来的に「点」の思考=ノンセンスをノンセンスのまま教授することは可能なのかということは興味をひかれる問いである。

 

おまけ――〈線〉から〈点〉へ、〈最善手〉から〈評価値〉へ、羽生善治から藤井聡太へ……

 さて、ここからはセンスとノンセンスがあまり関係なくなってしまうのでおまけ、と言いながらここからが一段とおもしろいところだと思うのだが、「線」の思考は「センス」で人間的、というのもこれはこれで結構複雑である。一口に「流れ」にかなった手を指すといっても、強い人は数手のうちでの整合性を考えるだけではない。棋士の解説を聞いていて感動するのは、彼らがもはや手を直接「読む」のは物量的に不可能なスケールで「線」をつくりだすような思考をおこなっていることだ(たとえば五手目に指した手が生きるような展開を百手を超えた終盤で考えるとか)。

 背景には、将棋が二人のプレーヤーが交互に同じ数の手を指していくゲームである以上、ひとつひとつの手の効果をすこしでも高めたほうが勝つ「はず」だという想定がある。ゲームの複雑さは人間の具体的な認識力(「読み」)をはるかに超えているため、手の「効果」を確実な根拠をもって把握することには限界がある。ならばと具体的な読みの上に一段抽象的な「はず」の次元をつくって、指し手相互の連なりのなかで効率がもっとも高まる「線」がある、そこに合わせられれば勝てる「はず」だと考えるのである。

 この考え方を「最善手」の思想と呼んで、羽生善治の「脱人間主義的」な革新性を解き明かしたのが小説家の保坂和志だった(『羽生 21世紀の将棋』朝日出版社)。保坂いわく、それまでの将棋は「棋風」、すなわち人間主義的な個性を中心に考えられていた。誰々は終盤が強い、受けが強い、対抗形が強い……。「棋風」という発想は、自分が相手を上回る部分があることを前提とする。

 しかし羽生善治の将棋観は、将棋というゲームの性質に適った手(=最善手)が局面ごとに必ずあり、それに沿った手を積み重ねていけば結果的に勝つことになるはずだ、というものなのだと保坂は言う。それはいってみれば〈将棋の神様〉の指し手であり、神様には長所も短所も、したがって個性もない。そこに自分を重ねられるか、それだけが問題だ。

 このとき中心が人間から将棋に移行する。他人に勝る指し手としての「棋風」は人間側から見れば確かに存在するが、それは人間的な錯覚にすぎず、将棋の側から見れば片方が「最善手」を指せていないだけなのである。だから羽生以降の将棋は「脱人間中心主義」なのだ(羽生のひとまわり年長の名人谷川浩司には「高速の寄せ」という棋風があった。対して羽生に棋風はなく、あるとすればせいぜい「勝つこと」くらいだとよく言われる。)

 さて、この「脱人間中心主義」的将棋は、まさにコンピュータ時代の将棋である。数値化された形勢が表示される画面で将棋を観戦する現代のわれわれは、まさに棋士の指し手を「最善手」からの引き算で捉えるようになっている。あるのは「正解手」か「失着」かだけで、相手を上回る手というのは存在しないのである。保坂の本は一九九七年の出版だが、まだコンピュータが棋士を負かすなど多くの人が考えなかった時代に、羽生のもたらした将棋観の「コンピュータ将棋」性をすでに見事に言語化していた。

 しかしここで、先に「点」と「線」について述べたことと羽生の「コンピュータ将棋」性とが齟齬をきたす。「最善手」の思想はAI的だが、同時に「線」の思想に近いのである。

 

 「ある局面で、それまでの “流れ” や “駒の動き” を正しく延長させていく指し手」

 「一局の将棋が持つ法則を実現させていく指し手」(46頁)

 

これが保坂による〈最善手〉の定義だ。この表現では、理念上コンピュータによって示されるべき将棋の「法則」こそが、「流れ」や「延長」といった「線」的なイメージで捉えられている。つまりAI的とされる将棋観のなかにも、「線」的なものと「点」的なもの、二つのイメージがあるわけだ。

 AI将棋における「線」的なもの=〈最善手〉に対し、AI将棋においてより「点」的だと感じられる、近年よく聞くようになった言葉がある。〈評価値〉である。〈評価値〉はその名の通り、形勢を数値で表したものだ。500対-500なら先手ちょっと有利、-3000対3000なら後手大優勢、10000対-10000なら詰みあり、といった感じである。

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 この値が「点」的だと感じられる要因として、手が指されるたびにAIが形勢を評価し直すということがある。棋士が手を指すと、数値が数秒のあいだ不安定になり、だんだん落ち着いてきて形勢がはっきりする。そしてどんなトップ棋士であっても、実際には相当「間違って」いる。逆転までいかなくても、3000点あった有利が500点にまで縮小する、しかし相手がそのことを見抜けずまた3000点の有利に戻る、といったことは頻繁にある(この事実が広く認識されるようになった、その意味で棋士が〈将棋の神様〉でなくなったのが評価値時代だということもできる)。

 観戦者は固唾を飲んでこの数値を見守り、一手一手の点数に絶叫する。こうした体験のなかに、「線」の感覚はきわめて乏しい。仮に正解手が指され500点が500点のままだったとしてすら、500点という二つの点が並んでいるように感じられているのではないか。

 そもそも数値というものが原理的に「点」的だともいえる。500、501、502…は連続しているといえばしているが、その間には500.2とか500.99とか無限の数字がある以上、本質的には非連続的である。そういえばシューエルもノンセンスと数字は親和性が高いと書いていたことをいま思い出した。実際キャロルの作品にもしばしば何のことやらよくわからない数字が出てくる。シューエルは「擬似連続体」という言い方でこの点を概念化していた。

 

 AI時代内での「線」から「点」への移行。

 現在将棋界には藤井聡太という新たなスターが誕生している。ぼくはあくまでごく個人的に藤井聡太以外の棋士の活躍を心の奥底から願っている人間なので、あまりこういう話向きにはしたくないのだが、とはいえ藤井世代によって、羽生とそれ以前との間に生じたような将棋観の断絶がもたらされているといえるのか(それとも単に藤井が強いというだけの話なのか)ということには興味がある。

 ここで「線」から「点」への移行が、ひとつのヒントになるのではないか。羽生の段階では、「流れ」、「法則」という一段抽象的な「線」の存在が想定されていた。それは将棋を「脱個性的」、「脱人間主義的」に捉えることによって出てきた考え方であったと同時に、それはそれで一種の信仰として信じられていた何かだった。しかしその「法則」が「支離滅裂で理解不能」なパラメータとして開示され、「センス」からは程遠いものだということが判明すると、もはやそれが「線」としてイメージされることはなく、出力としてのバラバラの「点」だけが残る。「法則」が存在しないわけではない。むしろ「法則」が十分に開示された結果、それが「線」としての像を結ばないのである。

 「線=センス」から「点=ノンセンス」へ × 2! 世界はどんどんノンセンス化しているのだろうか。ノンセンスは人から思考への意欲を奪う面がある。将棋の指導者はよくAIに依存して自分の頭で考える習慣を失わないように気をつけましょうと注意しているし、将棋観戦をしていても評価値が目に入るとついそれで満足してしまって自分で局面を読まなくなる。しかしそれは良くないからといって、AI使用を断ち、棋書を買い込み、棋譜をリアル盤に並べて勉強しましょうというわけにももういかない(それはそれでおそらく勝てないだろう)。こういう時代だからこそ、みなでAIを使った将棋の研究or観戦に一心不乱に打ち込み、ときどき息抜きに『アリス』なども読みつつ、ノンセンスが・ノンセンスで・ノンセンスを思考する術を内側から探求していくべきなのではなかろうか……。