あまりにも届いているのに届かない(はずの)関係―――『君の名は。』について

 新海誠の『君の名は。』を見ました。新海については、彼の名前も知らないうちから『ほしのこえ』を中学生の時に見ていて、それ以来は付き合いがなかったのですが、今回『君の名は。』公開を機会に彼の主要作品を全部見てみました。あちこちに既視感があるなあというのが『君の名は。』の第一印象(悪い意味ではなく)。ここでは新海のほかの作品とも照らし合わせながら、『君の名は。』の特徴を考えてみたいと思います。

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 『君の名は。』は、これまで新海誠が使ってきたモチーフがあちこちで用いられている作品です。例えば冒頭、夢から目覚めて「何かを覚えている気がする」という場面は、『雲のむこう、約束の場所』のラストで、佐由里が目覚めることに成功する代わりに、彼に言わなければと思っていたことを忘れてしまうというシーンに似ている。このモチーフは『君の名は。』の終盤、三葉と瀧が一瞬出会ったあとの場面で再度繰り返されます。また、別々の世界に属する男女という関係性は一貫して新海作品の骨格をなしてきましたが、その距離を空間的にのみでなく時間のずれとして示すというモチーフは、すでに『ほしのこえ』に表れていました。さらに、片割れ時が過ぎて別れてしまったあと、東京で電車に乗りながら虚脱感に満ちた生活を送る瀧を見て、『秒速5センチメートル』の貴樹を思い出した人は多かったはずです。

 このことは単に個々のモチーフの一致に留まらず、これまで新海が扱ってきた人間関係、物語の構造をも明らかにしてくれると思います。『君の名は。』は、これまでの新海作品の自作解説、種明かしのようなものとして見ることができると思うのです。作品の冒頭、最初の入れ替わりが起き、観客にも次第にその仕組みが明らかになっていく。「前々前世」の歌の前後で、入れ替わりが繰り返されながら二人の感情の変化が着実に説明され、やがて二人がお互いを好きになったことがはっきりする。一瞬のキスで永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのか」を理解してしまう『秒速』とは、この点、対称的です。

 さて、こうして二人の間には何が出来上がったのでしょう。それは、その人が誰かを知らないがその人が好きだ、という感覚ではないでしょうか。これは、「誰でもいいから恋がしたい」という類の、関係性自体を求める志向とも違います。特定のある相手と特別な関係にあることが分かっている。ただ、その相手が誰なのかだけが分からない。この意味で、「君の名は」というのはすぐれて示唆的なタイトルだと思います。その相手のことが好きだということは確かに知っている。知らないのは、相手の名前だけなのです。

 考えてみれば、新海誠が描いてきた男女の関係は、多かれ少なかれこの種の超越性を備えたものだったはずです。典型的なのは『星を追う子ども』で、明日菜とシュンの二人は出会う前にシュンの「最後の歌」を介してお互いを知っている。そうしてシュンは自分の歌を受け取ってくれた「誰か」に会うために、命を捨ててまで地上に出てくるわけです。『ほしのこえ』や『秒速』における主人公たちの独特な距離も同じように考えられるでしょう。彼らは特別な相手の存在を<感じ>てはいるけれども、実際の相手とは距離が離れすぎていて、その相手がいま現在「何者」なのかは知りようがありません。

 しかしもちろんこれだけではありません。この前提を作っておいて、次には、瀧と三葉の二人は空間的に離れているだけではない、そもそも別の時間に生きていたことが明らかになってくる。重なっているように見えていた世界が、実は三年の時が隔てる二つの世界だったという構図が浮かび上がってくる。このあたりの情報を順に出してくる『君の名は。』の手際は見事で、多くの人が驚きとともに息を呑んだと思います。

 そしてここで、『秒速』の貴樹と明里の間にあったのも、空間的な距離以上のもの、実は時間的な距離だったんだと気づかされることになる。明里は貴樹と別れてから、新しい男性と付き合い結婚を決めるという直線進行的な時間を生きているのに対して、貴樹は中学生のまま、ぐるぐると円環的な時間のなかに留まり続けている。二人は最早同じ時間を共有していないからこそ、出会うこともないのです。『雲のむこう』ではこれが、通常の世界と、無時間なパラレルワールドという形で示されていました。

 そうだとすると『星の名は。』の新しさは、アイディアやモチーフそのものというより、これまでのモチーフが形成されていく過程を、順を追って示したことだと思います。物語の進行を止めてしまうような「ポエム」も、短篇連作的な唐突さもなく、すでに述べたような二人の関係を着実に明らかにしていく。説明していく。「気持ち悪」[1]くなくなった要因として、単に「ポエム」が消えたということよりも、淀みなく進行していく物語を展開したことが大きかったように感じます。

 今回「自作解説」としての『君の名は。』という観点からもう一つおもしろかったのは、「入れ替わり」可能な三葉と瀧に、実際には対称的な性格が付与されていたことです。二人の人物造形の前提には、糸守町と東京、田舎と都会という対比がある。これが大きく関係してきます。三葉は糸守町から出たいという強い願望を持っている。前半で彼女が「生まれ変わったら東京のイケメン男子にしてくださーい」というようなことを叫ぶ場面がありますが、彼女は「田舎から都会へ」というはっきりとしたベクトルを示します。それに対して瀧には、少なくとも糸守町に行こうと決めるまで、これといって望みがありません。瀧がどういう人物なのかがはっきり描かれていないのでは、という感想をちらほら見かけますが、確かにその通りなのでしょう。彼は東京の人ごみのなかに埋没していて、三葉が持っているような願望、ベクトルを示さない。三葉は実家の行事をばかにされて学校の友達との関係のなかで微妙な孤独を感じているようだが、瀧にはそれもない。三葉は願望や悩みに満ちているが、瀧には中身がないのです。

 だからこそ、彼女の周囲には物語が生じる。物語には、いまいる場所から別の場所へという欲望、方向付けが不可欠です。最も明確なのは、二人の家族の描き分けられ方でしょう。両方とも片親ですが、三葉の家族には一通りの葛藤、物語があります。母の死、父との確執、そこから父との和解へ。けれども瀧の場合は、どうやら父親しかいないらしいことが示される(「今日の朝飯当番お前だろー」)ほか、何もありません。この対比は、映画全体の構造からみれば、三葉と瀧それぞれの、「物語」や「欲望」との関係を典型的に示しています。そういえば、瀧と先輩との恋愛というもう一つの「物語」を進めたのも、実際には入れ替わった三葉だったのでした。

 この対比が、「君の名は」というタイトルが示すアイデンティティの問題にまで関わってくるところがおもしろいと思います。物語の終盤、三葉に入れ替わった瀧が市長である三葉の父親に避難指示を出すよう直談判するところで、瀧は市長の「お前は誰だ」という言葉に大きく動揺します。しかし、計画が上手く行かないことを悲しむならともかく、「お前は誰だ」と問われたこと自体を気に病むのはやや脈絡がないようでもある。けれども、瀧の問題が「中身がない」ことだったのだとしたら。個性がない、自分が何者か分からない人物として瀧を捉えてみれば、そのことを鋭く指摘されて瀧が動揺する文脈が見えてくるでしょう。対して「中身のある」人物である三葉は、今度は自分で父親に談判しにいって、見事に町民の避難を成功させる。瀧ではだめで三葉でないといけなかったという展開は、単なる父娘の問題のみでなく、二人の自己のあり方の対称性を示唆するのではないでしょうか。

 そしてこの対比もまた、これまでの新海作品を支えてきた仕掛けだったと思います。すでに触れた『秒速』における、別れ、別の男性との付き合いから結婚へという直線的な物語を生きる明里と、同じところをぐるぐる回っているばかりの貴樹との対比はその典型ですが、例えば『星を追う子ども』にも同じことが言えます。主人公の明日菜は、一見いかにもジブリ的な「冒険」をしますが(冒険は本来極めて物語的なストーリーを要請するはずです)、実のところ彼女の旅は、映画の冒頭で経験したシュンとの「別れ」を繰り返し確認するためだけのものです。先に未知の希望があるのではなく、結論は最初に出ている。旅を先導するのはむしろ「先生」と呼ばれる森崎の方です。彼には亡くした妻を甦らせるという明確な目標があり、強い意志に満ちた彼に比べれば、明日菜は森崎についていっているに過ぎません。明日菜には望みがないとも言える。だからこそ、象徴的なことに、森崎は最後まで旅を真直ぐ続けるが、明日菜は途中で引き返すことになるのです。けれども、明日菜の旅がおもしろみに欠けるかというとそんなことはない。むしろ、直進する物語を背景にして、それに抵抗するような時間性を立てることが、新海的な人物造形の一端を成しているような気がする。私はこの「物語」と「非物語」の緊張感とでも呼べそうなものが、新海作品の魅力の大きな部分を形成していると考えています。

 なにはともあれ、こうして場所も時間も別の世界に住んでいることを知った三葉と瀧の二人は、片割れ時に一瞬だけ出会うことになる。「結び」や「片割れ時」といったモチーフは実になめらかに繋がっていて、謎解きのすっきり感もある見事な展開だったと思います。しかしその時間は長くは続かず、二人はまたそれぞれの世界に戻らざるを得ない。なのにどういうわけか、二人は最後に出会ってしまうわけです……

 このラストには、新海らしくないという否定的な意見と、『秒速』の鬱屈から抜け出せた! という肯定的な意見とが拮抗しているようです。新海自身もエンディングの問題は気にしているようで、プログラム所収のインタビューで「自分ではハッピーエンド/バッドエンドという考え方をしたことはなかったんですが、『秒速〜』は多くのお客さんにバッドエンドの物語と捉えられてしまったところがあって」(p.20)と、エンディングの受けとめられ方への違和感を表明しています。確かにエンディングをハッピーと取るかバッドと取るかはしばしば微妙な問題で、常識的には不幸な結末が見方によってはハッピーエンドだということも十分あり得る。ただ、ハッピー/アンハッピーとは少しずれたところで、出会えるか/出会えないかという点について考えれば、『君の名は。』のラストは流石に強引だったのではないでしょうか。

 ここまで分析してきた通り、『君の名は。』はこれまで新海が用いてきた道具立てに満ちています。根本的には新しいアイディアはないと言ってもいいと思う。実際一瞬の邂逅ののち、電車に乗りながら鬱屈した日々を送る瀧の姿に、「やっぱり……」と『秒速』の貴樹を思い出した人は多かったはずで、しかもここまではある必然性を備えているわけです。というのもこれまで分析してきた新海のモチーフは全て、「二人が実は別の世界に属していること」を示すものだったから。名前を知らない相手への愛も、時間の隔たりも、直線的な物語との関係の差も、すべて二人が別々の世界の住人であることを明らかにする装置だった。少なくとも新海はこれまでどの作品でもそう結論を出していたはずです(『言の葉の庭』ですらそうでしょう)。それに対して今回は、こうしたモチーフの全てを温存しながら、結論だけすげ替えている。しかしそんなことが出来てしまうのなら、これまでの作品で示してきた結論は何だったのかということになってしまうのではないでしょうか。ここで問題になっているのは、ハッピーエンドかバッドエンドかという二項対立ではないと思う。100分かけて示したはずの「出会えなさ」を最後の数分でひっくり返す強引さ。「出会える」という結論を出すならば、それはそれで過程がなければならないはずです。この過程を示さずただ「出会わせて」しまうのなら、それこそハッピーエンド好きかバッドエンド好きかという観客の嗜好で判断するしかなくなってしまうのではないでしょうか。

 

 というわけで、物語の洗練という意味ではすばらしい出来だと思いましたが、物語の完成度という点で、私としては『君の名は。』を新海の最高傑作とは評価できないなあという結論です。個人的には『星を追う子ども』がこれまでのベストだと思っています。

 なお、物語の完成度という点については、これは雑感という感じですがもう少し思うところがあるので、後日付け足したいと思います。

 

 

[1] http://diamond.jp/articles/-/102665?page=4