「ノンセンスとは究極の秩序である」応用編――将棋AI(人工知能)について

 

 先日NHK出版note「本がひらく」にて、エリザベス・シューエルの『ノンセンスの領域』を紹介した。

           

彼女のノンセンス論は『不思議の国のアリス』論として啓発的であるにとどまらず、そこから派生して自由な思考を刺激してくれるおもしろさがある。記事では字数の関係で(かつあまりに自分の趣味に寄りすぎるので……)触れられなかったため、ここでは応用の一例ということで、昨今話題の将棋AI(人工知能)の語られ方にも「センス」と「ノンセンス」の発想が見られることを書いてみたい。将棋をまったく知らない方にも伝わるように、それどころかあわよくば将棋自体にも興味を持ってもらえるように書いたつもりなので、そういう方もぜひ以下で最低限の予習をして先に進んでくれるとうれしい。

将棋を知らない方のための基礎知識:将棋は9×9の盤上で8種類、合計40枚の駒を交互に動かして、先に相手の「王」をとった方を勝ちとするゲーム。相手の「王」を早く取ろうとする動きが「攻め」、自分の玉が取られるのを遅らせようとする動きが「受け(守り)」。シンプルなゲームに見えてその可能性は膨大で、ゲーム中に現れうる局面の数(10の226乗)はこの宇宙の原子数(10の80乗)よりも多いらしい。ちなみに西洋版将棋であるチェスとはルイス・キャロルは関わりが深い。

将棋AIについての基本情報:現在人間が将棋AIに勝つことは考えられないが、つい最近まで、コンピュータがプロ棋士に勝つほど強くなるなどありえないと考える人は少なくなかった(ウィキペディアの「コンピュータ将棋」のページに1996年に行われたプロ棋士へのアンケートの結果がまとめられていておもしろい。羽生善治が正確な予言をしていたことがよく話題にされる。(https://ja.wikipedia.org/wiki/コンピュータ将棋#2004年以前))。「人間対人工知能」という図式が成立した期間はひじょうに短く、2013年に両者の実力が拮抗していることがプロ棋士の口から語られるようになってから、2017年に佐藤天彦当時名人が第2期電王戦で将棋ソフトponanzaに二連敗を喫しもはや人間がコンピュータと「対戦」することには意味がないと理解されるまで、その間わずか数年だった。以降は研究のための道具という認識が一般的になっており、現役の棋士でAIをまったく使わず研究している人はほぼいないのではないか。

 ただし、そうはいっても将棋の必勝法はいまだに見つかっていない。局面数の膨大さから、全局面を解析し尽くすことは現実的ではないらしく、実際いまでもAIは日々将棋が上達している。

f:id:migeru82:20220402025145p:plain

「将棋のルール.com」より(https://www.shogi-rule.com/koma_shoki/

 

シューエルの「ノンセンス」(復習)

 まずはシューエルのノンセンス論をかんたんにおさらいしておこう。シューエル曰く、一見混沌として無秩序に見える「ノンセンス」の本質は、実のところ「秩序」である。それは論理、ルール、明晰さの世界であり、個別の単位、部分が優越している。対して「センス」は調和、混沌、部分と部分が溶け合った先にある全体性であり、その意味でむしろ「無秩序」である。

 たとえば、「薔薇のように真っ赤な林檎」という表現を考えてみると、「薔薇」と「林檎」は赤さという性質を介して強く結びついている。薔薇の刺々しさ、林檎のもつ原罪の象徴性などが混ざり合い、さまざまな意味が生じてくる(この意味で、成功した比喩というのは「センス」だということになる)。

 対して、「うなぎを鼻先にのせるウィリアム父さん」(第5章)はどうだろう。うなぎとウィリアム父さんの間には、共通性も対比もなく、鼻先にのった「うなぎ」は「ウィリアム父さん」のいかなる性質も説明していない。「a+b→c」とならず、「aとb」はただは「aとb」でしかないという状況、これがノンセンスのあり方だ。

          f:id:migeru82:20220402025009p:plain

 

「点」の思考と「線」の思考

 AIの長所を説明するとき、プロ棋士はよく「点」と「線」という表現を使う。一般に人間が得意とするのは「線」の思考であり、将棋を教わるときにもこの意識が重要だと説明される。例えば一手前に攻めの手を指したのにその次に受け(守り)の手を指したら、どちらも中途半端になってしまう。一手前には右側を攻めたのに次の手で左側を攻めたら、右側を攻めた手が無意味になってしまいかねない(こういうのを「一手パス」と表現したりする)。そこまでの経緯を生かし、それがその後につながるように、流れを意識して指し手を考えるとよい、というのがこの「線」の思考の骨子である。

 対してAIの思考は「点」の思考であり、これこそがAIの強みである。AIは手が指されるたびに局面を読み直すので、それまでの「流れ」に判断を左右されない。「線」の思考はあくまで当てはまる場合が多いというだけの原則にすぎないわけで、実際には、右側を攻める手を直前で指していたとしても、直後の相手の指し手によって、左側を守ったほうがよい状況が生まれているという可能性はあるわけだ。このとき人間は、つい直前までの右側を攻めるという方針に後ろ髪を引かれてしまう。「線」の思考が仇となるわけである。

 この人間の指し手とAIの指し手、「線」の思考と「点」の思考は、そのまま「センス」と「ノンセンス」の特徴に対応する。本来非連続であるはずの「手」(1手目と2手目の間に1.4手などはない)が、「線」の思考では互いに溶け合って「意味」や「物語」を生じさせ、有機的な調和を志向してしまう(=センス)。対して「点」の思考では、あくまで非連続な一回ごとの「手」があるだけであり、百回指したら百個の独立した場面、「部分」があるだけである。何より、実際に勝つのはAIなのだから、「秩序」は圧倒的に「点」の側にある(=ノンセンス)。

 しかし、ここからが重要なのだが、この結果としての「秩序」は、内実を見てみるとむしろ「無秩序」に見える。将棋AI製作者の山本一成は『人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?』(ダイヤモンド社、2017年。名著。オススメ)で、機械学習における「黒魔術」という概念を紹介している。プログラムが自動で対局して自身を改良していく機械学習においては、プログラムの実力が人間を超えすぎていて、調整されている個々の数値やその組み合わせがなぜそれでいいのか、そもそもそれは具体的に何を意味する数値なのか、制作者にすらよくわからないらしい。その設定でうまくいく理由はせいぜい「実験してみたらうまくいった」としか言えず、それは人間の目には、理屈で説明できる合理的な事象ではなくむしろ暗闇のなかで行われた魔術のように見える。

 これこそAIの「点」の思考がノンセンスに通じる第二のポイントである。「点」の思考は生半可な秩序ではなく「究極の秩序」なので、アリスのパロディ詩と同様、支離滅裂で理解不能なのだ。こうして「人間=線=センス、AI=点=ノンセンス」と整理してみると、現代の技術、人工知能の話にまで通じるシューエルのノンセンス論の射程の広さが見えてこないだろうか(実際キャロルは数学者、論理学者でもあり、コンピュータ技術に通じる知の系譜の属する学者だった)。

 逆に言えば、この数十年AIの実験場となってきた将棋などの(それ自体では古くからある)ボードゲームは、こういう視点で楽しむこともできる。優れた詩人が必ずしも優れた詩の書き方を説明できるわけではないのと同じで、プロ棋士が必ずしも将棋やAIの仕組みを明晰に説明できるわけではないが、人並外れて鋭敏な感覚をもつ棋士の言葉が、AIと人間をめぐるある種の真理に触れているように思えることは多い。将棋観戦には誰が勝った負けただけでなく、このように棋士の言葉を「読解」する楽しみもある。(興味を持たれた方はとりあえず日曜日の午前中3チャンネルをご覧あれ!)

 

ノンセンスは学べるか

 この「支離滅裂で理解不能」という点は、将棋AIの使用の現場に関していうと、研究や教育の問題に直結する。なぜならいくら結果がわかっても(正しい手を知ることができても)プロセスが理解不能では、結局実戦では役に立たないからである(この手を相手が指せば自分が有利になることだけを知っても、こちらが具体的にどう指せば局面を有利にできるのかがわからなければ意味がない)。これはおそらく数学の証明問題のようなもので、かりに全員が同じ結果を手にしてもそれを証明できるかどうかはその人次第、どう証明するかも棋士によって差が出るので、そこがいわゆる研究力の差ということになるのだと思われる。

 あるいは、事前に想定できる場面を離れたあと、未知の局面に突入したときの実力を、AIから学ぶことで伸ばせるかという問題もある。豊島将之九段(彼には頑張ってほしい……)が「AIから中盤の力強さのようなものを取り入れたいと思ったがあまりうまくいかなかった」というようなことを何かのインタビューで言っていたが、具体的なパラメータ(これを指標にすればいい、というようなこと)はAI製作者にすら理解できないということになると、結局棋士は「感覚」を身につけることを目指すしかない。しかしそれは「羽生善治先生の感覚を身につけたい」と同じといえば同じなわけで、やること自体は以前と何も変わらないようにも思える。

 だから誰でも世界最強の将棋AIを一家に一台備えつけることが可能になった現代でも、プロ棋士「線」の思考による指導(いわゆる指導対局)には需要があるわけだが、将来的に「点」の思考=ノンセンスをノンセンスのまま教授することは可能なのかということは興味をひかれる問いである。

 

おまけ――〈線〉から〈点〉へ、〈最善手〉から〈評価値〉へ、羽生善治から藤井聡太へ……

 さて、ここからはセンスとノンセンスがあまり関係なくなってしまうのでおまけ、と言いながらここからが一段とおもしろいところだと思うのだが、「線」の思考は「センス」で人間的、というのもこれはこれで結構複雑である。一口に「流れ」にかなった手を指すといっても、強い人は数手のうちでの整合性を考えるだけではない。棋士の解説を聞いていて感動するのは、彼らがもはや手を直接「読む」のは物量的に不可能なスケールで「線」をつくりだすような思考をおこなっていることだ(たとえば五手目に指した手が生きるような展開を百手を超えた終盤で考えるとか)。

 背景には、将棋が二人のプレーヤーが交互に同じ数の手を指していくゲームである以上、ひとつひとつの手の効果をすこしでも高めたほうが勝つ「はず」だという想定がある。ゲームの複雑さは人間の具体的な認識力(「読み」)をはるかに超えているため、手の「効果」を確実な根拠をもって把握することには限界がある。ならばと具体的な読みの上に一段抽象的な「はず」の次元をつくって、指し手相互の連なりのなかで効率がもっとも高まる「線」がある、そこに合わせられれば勝てる「はず」だと考えるのである。

 この考え方を「最善手」の思想と呼んで、羽生善治の「脱人間主義的」な革新性を解き明かしたのが小説家の保坂和志だった(『羽生 21世紀の将棋』朝日出版社)。保坂いわく、それまでの将棋は「棋風」、すなわち人間主義的な個性を中心に考えられていた。誰々は終盤が強い、受けが強い、対抗形が強い……。「棋風」という発想は、自分が相手を上回る部分があることを前提とする。

 しかし羽生善治の将棋観は、将棋というゲームの性質に適った手(=最善手)が局面ごとに必ずあり、それに沿った手を積み重ねていけば結果的に勝つことになるはずだ、というものなのだと保坂は言う。それはいってみれば〈将棋の神様〉の指し手であり、神様には長所も短所も、したがって個性もない。そこに自分を重ねられるか、それだけが問題だ。

 このとき中心が人間から将棋に移行する。他人に勝る指し手としての「棋風」は人間側から見れば確かに存在するが、それは人間的な錯覚にすぎず、将棋の側から見れば片方が「最善手」を指せていないだけなのである。だから羽生以降の将棋は「脱人間中心主義」なのだ(羽生のひとまわり年長の名人谷川浩司には「高速の寄せ」という棋風があった。対して羽生に棋風はなく、あるとすればせいぜい「勝つこと」くらいだとよく言われる。)

 さて、この「脱人間中心主義」的将棋は、まさにコンピュータ時代の将棋である。数値化された形勢が表示される画面で将棋を観戦する現代のわれわれは、まさに棋士の指し手を「最善手」からの引き算で捉えるようになっている。あるのは「正解手」か「失着」かだけで、相手を上回る手というのは存在しないのである。保坂の本は一九九七年の出版だが、まだコンピュータが棋士を負かすなど多くの人が考えなかった時代に、羽生のもたらした将棋観の「コンピュータ将棋」性をすでに見事に言語化していた。

 しかしここで、先に「点」と「線」について述べたことと羽生の「コンピュータ将棋」性とが齟齬をきたす。「最善手」の思想はAI的だが、同時に「線」の思想に近いのである。

 

 「ある局面で、それまでの “流れ” や “駒の動き” を正しく延長させていく指し手」

 「一局の将棋が持つ法則を実現させていく指し手」(46頁)

 

これが保坂による〈最善手〉の定義だ。この表現では、理念上コンピュータによって示されるべき将棋の「法則」こそが、「流れ」や「延長」といった「線」的なイメージで捉えられている。つまりAI的とされる将棋観のなかにも、「線」的なものと「点」的なもの、二つのイメージがあるわけだ。

 AI将棋における「線」的なもの=〈最善手〉に対し、AI将棋においてより「点」的だと感じられる、近年よく聞くようになった言葉がある。〈評価値〉である。〈評価値〉はその名の通り、形勢を数値で表したものだ。500対-500なら先手ちょっと有利、-3000対3000なら後手大優勢、10000対-10000なら詰みあり、といった感じである。

        f:id:migeru82:20220402025448p:plain

 この値が「点」的だと感じられる要因として、手が指されるたびにAIが形勢を評価し直すということがある。棋士が手を指すと、数値が数秒のあいだ不安定になり、だんだん落ち着いてきて形勢がはっきりする。そしてどんなトップ棋士であっても、実際には相当「間違って」いる。逆転までいかなくても、3000点あった有利が500点にまで縮小する、しかし相手がそのことを見抜けずまた3000点の有利に戻る、といったことは頻繁にある(この事実が広く認識されるようになった、その意味で棋士が〈将棋の神様〉でなくなったのが評価値時代だということもできる)。

 観戦者は固唾を飲んでこの数値を見守り、一手一手の点数に絶叫する。こうした体験のなかに、「線」の感覚はきわめて乏しい。仮に正解手が指され500点が500点のままだったとしてすら、500点という二つの点が並んでいるように感じられているのではないか。

 そもそも数値というものが原理的に「点」的だともいえる。500、501、502…は連続しているといえばしているが、その間には500.2とか500.99とか無限の数字がある以上、本質的には非連続的である。そういえばシューエルもノンセンスと数字は親和性が高いと書いていたことをいま思い出した。実際キャロルの作品にもしばしば何のことやらよくわからない数字が出てくる。シューエルは「擬似連続体」という言い方でこの点を概念化していた。

 

 AI時代内での「線」から「点」への移行。

 現在将棋界には藤井聡太という新たなスターが誕生している。ぼくはあくまでごく個人的に藤井聡太以外の棋士の活躍を心の奥底から願っている人間なので、あまりこういう話向きにはしたくないのだが、とはいえ藤井世代によって、羽生とそれ以前との間に生じたような将棋観の断絶がもたらされているといえるのか(それとも単に藤井が強いというだけの話なのか)ということには興味がある。

 ここで「線」から「点」への移行が、ひとつのヒントになるのではないか。羽生の段階では、「流れ」、「法則」という一段抽象的な「線」の存在が想定されていた。それは将棋を「脱個性的」、「脱人間主義的」に捉えることによって出てきた考え方であったと同時に、それはそれで一種の信仰として信じられていた何かだった。しかしその「法則」が「支離滅裂で理解不能」なパラメータとして開示され、「センス」からは程遠いものだということが判明すると、もはやそれが「線」としてイメージされることはなく、出力としてのバラバラの「点」だけが残る。「法則」が存在しないわけではない。むしろ「法則」が十分に開示された結果、それが「線」としての像を結ばないのである。

 「線=センス」から「点=ノンセンス」へ × 2! 世界はどんどんノンセンス化しているのだろうか。ノンセンスは人から思考への意欲を奪う面がある。将棋の指導者はよくAIに依存して自分の頭で考える習慣を失わないように気をつけましょうと注意しているし、将棋観戦をしていても評価値が目に入るとついそれで満足してしまって自分で局面を読まなくなる。しかしそれは良くないからといって、AI使用を断ち、棋書を買い込み、棋譜をリアル盤に並べて勉強しましょうというわけにももういかない(それはそれでおそらく勝てないだろう)。こういう時代だからこそ、みなでAIを使った将棋の研究or観戦に一心不乱に打ち込み、ときどき息抜きに『アリス』なども読みつつ、ノンセンスが・ノンセンスで・ノンセンスを思考する術を内側から探求していくべきなのではなかろうか……。

なかったかもしれない本当のこと――KUNIO10『更地』

 2021年11月14日に、KUNIO10の『更地』(作:太田省吾、演出:杉原邦生、出演:南沢奈央濱田龍臣)の千秋楽公演を、世田谷パブリックシアターで観てきた。杉原邦生の演出は、(たしか)二年ほど前、横浜に引っ越したころに神奈川芸術劇場にかかった『グリークス』がすごくよくて、それ以来気になっていた。とはいえ前作がギリシャ悲劇を全部繋げましたみたいなほぼ1日がかりの大作だったのに対し、今回は出演者がたった二人のミニマルな芝居ということで、太田省吾についてもほとんど何も知らず、どんな感じになるんだろうと新鮮な気持ちで出かけた。

 

 

 『更地』は二人の子どもを育て終えた初老(?)の夫婦が、かつて自分たちの家があり、いまは「更地」となっている場所に旅して、そこで自分たちの来し方を辿り直す、という物語だった(手元に台本がなく思い出しながら書いているので、記憶違いやとんでもない誤解があるかもしれないがご容赦を)。四角い舞台に「更地」と大きく書かれた布が敷かれており、数個のブロックやシンク、便座など若干の家具が家の間取りを思い出しながら配置されていくのだけれど、途中でそこにさらに今度は黒い「更地」布がばさっと掛けられる。会場配布のパンフレットによればこの大きな布が、初演以来『更地』のトレードマークのようなものらしい。

 冒頭で二人が家のミニチュア模型を手に、家屋がどこかへ飛んでいった顛末をみじかく語りながら、雪が燃えてランプがついた、しかしそのことを言葉にすると(だったか、認識すると、だったか)火は消えてしまったと述べる。ここですでに、ありえないようなことが確かに起こった、けれどもそれはそうと意識しただけで消えてしまうようなものだったという、出来事のきわめて曖昧なステータスが提示されている。

 二人は妻が作ってきた弁当(伸びたスパゲッティ)を、箸を忘れたために手で摘んで食べるなどしながら、ここに寝室があった、ここで何をしたなどと、ブロックやごく少数の家具をつかって家の間取りを再現する。夫が生活習慣を改善しようと思うというようなことを言い出し、二人はつかの間、早起きした夫婦が交わす想像上の会話を誇張的な仰々しい喋り方で試みる(こういうことは実際たまにあって、以前とある飲み会で、社交辞令的な会話が上手くできないという話から、「こんにちは。今日はいい天気ですね」と練習して大笑いしたことがあった)。やがて二人は格子(窓枠?)を手に持ってかつての自分たちを「覗き見」、あの時わたしが笑っていたのは実はこういう理由だったのだなどと話すのだが、そのうち妻が自分は覗き見られる側になりたいと言って、夫が持つ窓枠の「向こう側」に移動する。過去の自分を演技することでかつてあったことを確かめようとする試みが、こうして本格的にはじまるのだ。

 この過去への遡行は夫婦生活にとどまらない。自分は存在したのだ、生まれたのだ、という話の流れから、二人はハイハイする赤ん坊にまでなりかえる。「あぶあぶあぶあぶ」と連呼しながら四つん這いで歩きまわる南沢奈央(1歳)が、機嫌を悪くしひっくり返った亀のようになって泣きわめく濱田龍臣(1歳)に気づいて、「あぶ? あぶ?」と首を傾げるところは笑えた。南沢がさきに立ち上がって「もう16歳なのよ!」と言うと、そこから二人は思春期に入っておのおのの初恋を、そして二人が出会った蝉の鳴く夏をたどりなおす。ここではいかにもロマンチックな蝉ラップソングが歌われるのだが(「蝉の鳴き声が体に沁み入る、そして息が荒くなる」とかなんとか)、煽ってくるなあと思いながらふつうにうるっとしてしまう。まあこういう箇所はある種の緩めパートとして、このあとの緊張感みなぎる展開への助走として役立つという効果もあるとおもう。

 この一連の展開を見ながら、ぼくは『グリークス』よりもさらに数年前にどはまりしていたウォン・カーウァイの映画を思い出した。『花様年華』で、それぞれ配偶者と共にとあるアパートに引っ越してくる既婚の男女(トニー・レオンマギー・チャン)は、互いの配偶者が自分たちを裏切っておこなっている不倫を、彼らはこういう風に親しくなっていったのではないかと、想像上の模倣を試みることで推測する。それはあくまで背かれた者たちの演技、作り事にすぎなかったのだが、しかしそれ自体がいつしか本当の愛になってしまうのだ。彼らはそのまま、迫りくる自分たちの別れも、演技で予行演習する。それが演技であることの意味は本当の悲しみを予防的に回避することであるはずだったのに、二人の偽れない感情がもっとも昂ぶるのは、まさにこの演技の最中である。

 カーウァイにとって「個室」は特権的なモチーフで、その虚構としての真実、真実としての虚構は、狭い部屋の内側の、閉所恐怖的な空間にこそ生じることになっている(これについては以前『エクリヲ』webに「『個室』の変容を求めて——ウォン・カーウァイ全作品論」というタイトルで書かせてもらった)。今回の芝居にも似たところがあり、そこはいまとなっては何もない「更地」で、二人は演技をしているにすぎないのだけれど、しかしそこはかつて家だった四角に囲われた空間で、この場所に二人は何か本当のことを見出しそうな気持ちになっている。どうしてただ思い出すだけではだめで、二人は「更地」に来なければならないのか、過去を一旦演技で受け止め直さなければならないのか、そのとき虚構はどういう機能を果たすのか。これは最近考えているテーマなのだが、思えば当時気になっていたカーウァイの「個室」がすでに虚構と密接に結びついた空間でもあったのだということを思ったりしていた。

 同じくカーウァイの『恋する惑星』では、一目惚れした女が男の部屋を勝手に模様替えしてしまうことで、男の欲望が気づかないうちに変形し、やがてそれが現実化するということになっている。これが未来に向けた「個室の変容」なのに対し、『花様年華』の不倫再現パートや『更地』のやり直しは、基本的に過去に向かっている。では『更地』における過去の虚構化によって、トニー・レオンフェイ・ウォンをいつの間にか本当に好きになってしまったことに対応するような仕方で、過去の何かが「変化した」ということはあるのだろうか。

 ここで起こっているのは、過去の「解釈」の変更ともすこし違うことだ。たしかに過去をやり直してみることによる発見もあるにはあって、じつは妻がぐいぐいキスを迫ってくる乱暴な男の子に実際にキスを許していた、どころか自分としても満更でもなかったのだとか、どうやら妻は子どもに対する夫の態度に不満があったらしいとか、そういう新事実の発見やそれにともなう過去の見え方の変化も生じはする。けれどもこれらはごく挿話的なことに過ぎなくて、舞台上で起こることの中心にあるのは、生まれてから二人が出会うまでの、二人がその家で暮らしはじめてからこれまでの人生を、虚構として、自分たちによる自分たちに向けたお芝居として、ただ生き直すということだ。どういうわけか、小説の基本的な時制は過去ということに決まっている。これは考えてみると存外面白いことで、原理的にはそうでなければならないわけでもない(実際現代では現在時制の小説もよく見られるようになった)のに、なぜかそうなっている。~ということがあった、~ということがあった。ただそういう風に語り直すだけで、記憶が、出来事が、虚構に一歩ちかづく。過去に起こったことが変化するわけではなく、なにが起こったのかをめぐる理解が変わるわけでもない。いまは更地となったこの場所でかつて起きたこと、ただその現実としてのステータスが、変化を被るのだ。

 配役もこの感覚とつながっている。本来なら二人の子供を巣立たせた後だから若くても50歳かそれくらいの男女が演じるべきところ、今回のペアは31歳(南沢)と21歳(濱田)なのである(というかいま検索して知ったのだが、濱田龍臣、若い!!)。時系列的に正しく「初老の夫婦」なら、遠い過去を思い出す記憶のニュアンスが強く出たのかもしれない。けれど今回の配役では、過去を辿りなおしている二人のその現前のほうが明らかに際立つ。それに、こういう時間的なブレは台本が積極的に喚起するところでもある。二人の口癖に「15秒」というのがあって、彼らは何かあるごとに「15秒待って」とか「15秒で~するから」とか言うのだが、これは実際には5秒にもなれば20秒にもなるのである。過去に起こったといま言うことが何らか虚構性の端緒になるのだとして、それはこういう伸縮性のある時間のなかで展開するのだ。

 しかし虚構であればこそ(という風につながるのだとぼくは思ったのだが)、それは本当に起こったのかという不安が頭をもたげてくる。妻はいささか改まって、二人しか知らないことは本当はなかったかもしれないことだと(たしかそうらしいのよという感じで)切り出す。戦争はあった。みんなが知っているし、教科書にも載っている。家族で行ったピクニックもあった。戦争ほどではないにせよ、それでも子供二人、それに家の留守を頼んだ近所の人が知っている。でも、二人しか知らないことは、なかったかもしれない。

 こういうことは、目撃者が少なくてもせめて、言葉にしやすく、慣習として認識されやすいことだったら、防ぎやすいのだろう。だから人は「夫婦」になったり「~友」になったりして、「なかったこと」になってしまう不安を解消しようと努力するわけだろう。にもかかわらず、これはみんなもやっているあれと名指せない逸脱が、「二人しか知らないこと」が、介在しない関係などあり得ないし、その領域は往々にして親密さとともに拡がっていく。

 二人しか知らないことは本当はなかったかもしれないことなのだと言った妻はつづけて、それでも自分は本当のことが欲しいのだ、と訴える。本当のことが欲しい。でもそれは戦争のようなこととは違う。ピクニックとも違う。本当のこととは、ほとんどなかったようなことなのだ。ここに至って、最初「二人しか知らなかったこと」の性質とされたことは、「本当のこと」の定義になっている。それでも、と言葉に詰まりながら口にされるのが、この一連の台詞のクライマックスだ。でもそういうことがたくさんあれば、たくさんあれば……それは本当のことになるかもしれない……。

 妻が最後にすがるようにして持ちだすのは、ある意味で身も蓋もない、純粋な物量というアイディアだ。一つ一つが「ほとんどなかったこと」だとしても、それがたくさんあれば、「本当のこと」になりうる。ここには一種十九世紀的ともいえる「嵩」への訴えかけがあって、自由意志をもつ人間を生み出そうという壮大な計画の失敗がすべてを無に帰してしまうとしても、客席にひたすら座り続けた観客の首や腰の痛みにおいて、たしかに何かがあったのだ。物語はまず九〇〇頁という厚さにおいて、四夜連続十五時間という長さにおいて、「本当」なのだ。そこでなされているのはいわば捨て身のフィクションの存在証明で、仮にその真偽にかんして第三者の証言や当人たちの記憶(どちらかが死んでしまったらどうするのか!)があてにならないとしても、なお「たくさんあれば」あるのだ、という妻のこの発想に、ぼくは説得されてしまった。

 妻はこの一連の発言を(たしか)舞台の左手前から、右奥へと退いていく夫に向かって投げかけるのだが、ここは妻と夫の認識の齟齬を表現した場面として見ないほうがおもしろいとぼくは思った。たしかにそういう見方を誘う面もあって、子供への関心度の差が妻の不満をつうじて表面化するとか、夫がこの辺りの妻の発言を軽視しているようなそぶりを見せるとか、おそらく意図としてはそういうことも想定されているとは思うのだが、しかしこれこそ演出家謂うところの「昭和の匂いがする」要素でいささかわかりやすすぎる。むしろここで何度も言い澱みながら台詞を口にする南沢が、意識の二割くらいを観客に向け、その場にいるすべての人を巻き込んで祈ろうとしているように見えたことが何よりも印象的だった。「ほとんどない」ことは、フィクションとしてやり直したことは、一方ではどこまでいっても「本当のこと」になりようがないのだが、それをたくさん積み上げることで、「本当のこと」であって欲しいと広がりのある空間に向けて祈る限りにおいて、その存在としては本当になる。役者の吃りに自分も息が詰まるようで、感動が抑えられなかった。

 このクライマックスのあとで、二人は舞台の冒頭近く、「更地」にやってきたときの最初の会話をもう一度やりなおす。ここでは家があったころのことをやり直すのではなく、もはやこの芝居のなかで起こったことをたどりなおすことになっている。「ううん」というイン・メディアス・レス的な何のことやらわからない否定から始まり、妻が夫におんぶして欲しいと頼んで、背中の上から空に浮かぶ「お月さん」を見るよう夫を促す。むかしと違い屋根がないから、空を直接見ることができるのだ。月についてのやりとりの後おんぶを解くと、二人は今度は空に浮かぶ満天の星に気づく。舞台が暗くなり、プラネタリウムのように星がまたたいて見える。豆電球をたくさん吊るした感じ(?)の簡単な装置だったと思うのだが、三階席から観ていて目線の高さに無数の星が光り、とてもきれいだった。そこで妻が嬉しそうに言う「ここから星を見たのは初めてだ」というような言葉が、この作品の最後の台詞だ。

 星には慣習上さまざまな象徴性がありえ、この月から星へというエンディングには、到達不可能性とか(『星を追う子ども』)、在不在をめぐる認識の不確かさだとか(『星の子』やら『美しい星』やら)いったことも関係ありそうではある。たださっきも言ったように、このラストの幸福感にコミュニケーション不全や認識の齟齬の影を見るようなアイロニーの読み取り方は、なんとなくポイントを外しているような気がする。むしろぼくが重要だと思うのは、星の複数性だ。「たくさんある」という複数性、祈りを共有する観客の複数性、それに、繰り返される演技によるフィクションの次元の複数性。二人の生活を演技としてやりなおすことでそこに「ほとんどない」「本当のこと」を見出すとき、それは原理的にいって何重にも演技でありうるし、実際九十分に満たない短い時間の中ですら、「お月さん」のやりとりがやり直され、それが「星」をめぐる変化を招き入れている。

 この演技があったからこそ変われた、「星」を見ることができたと同時に、それは何にでもなれるという全能感ともちがう手触りのものだ。むしろそれは九十分かけてやっと二回の、そして最終的にただ星が大量に在るということの、ずんぐりして鈍臭い「存在」の発見に帰着している。しかし、どこかにこういう「嵩」としてあるとしか言えないものを含むのがフィクションというものではないか。それがこの芝居を観ながら最後に考えたことだった。二人しか知らないこと、それはほとんどなかったかもしれないことだ。認識する主体の数から言えばそれはあまりにも弱々しいものだ。けれど、にもかかわらず、それは量的にこそ、存在をたしかめることができる。この逆説に目を向けたとき、南沢の口にする「たくさんあれば」という言葉が、それに応えるようにまたたく無数の星が、二人の暮らしがたしかにあったことを証立てる虚構として、ずっしりと重い意味を持ちはじめる。

『君の名は。』論 番外編――クリストファー・ノーラン『インセプション』における新海的感覚

 前回は『君の名は。』について詳しく書きましたが、今回は番外編ということで、新海誠からの影響を受けているとされるクリストファー・ノーラン監督の『インセプション』に登場する短い台詞について書いてみようと思います。『インターステラー』における、時間が離れていってしまうというモチーフが、『ほしのこえ』からの着想だということが言われているようですが[1]、話の作りとしては『君の名は。』にもかなり似ています。男女が距離と時間に引き裂かれて、一瞬奇跡的な出会いをして(片割れ時/5次元空間でマーフと交信)、最後にもう一度出会う。影響関係というのはそう単純に言えないのが常ですが、今回は新海誠の方があとなので(『インターステラー』は2013年)、逆方向の影響があったという可能性も十分考えられそうです。

 それはともかく、『インセプション』は、ディカプリオ扮するコブとその仲間たちが、意識の深層に降りていって、ある会社の若社長に自分の会社を捨てるというアイディアの種を植え付ける(この「アイディアの種を植え付ける」ことが「インセプション」)話ですが、コブには自分のインセプションによって妻を亡くした過去がある。一緒に意識の世界を探求していたコブと妻のマルですが、マルはいつしか意識の世界に取り憑かれてしまい、現実世界には戻りたくないと言い出す。そこでコブは、「意識の世界で死んで現実世界に戻らなければならない」というアイディアを植え付ける(インセプション)わけです(意識の世界で死ねば現実世界に戻れるというルール)。 

 意識の世界で死ぬシーンが、今回取り上げたい場面です。

 

www.youtube.com

 

二人が喋っているのは次のような内容(日本語は私訳)。

コブ:君は電車が来るのを待っている。遠くに連れて行ってくれる電車を。君はこの電車にどこに連れて行ってもらいたいか知っている。でもどこなのかはっきりとは分からない。けどそんなことどうだっていい。なぜだか言ってみて。

マル:あなたと一緒だからよ。        

Cobb: You’re waiting for a train. A train that’ll take you far away. You know where you hope this train will take you. But you can’t know for sure. Yet it doesn’t matter. Now tell me why!

Mal: Because you’ll be together

ここ、コブは結構難しいことを言っていると思います。「遠くに連れて行ってくれる電車」が来ると知っていて、「どこに連れて行ってもらいたいか」も分かっている。けれども行き先だけがはっきりしないのです。3文目は英語で見ると、短い文ながらYou knowのなかにwhere you hopeがあり、さらにその中にthis train will take youがあるというように3層の複雑な構造になっている。you hopeを取り除いたYou know where this train will take you.「君はこの電車がどこに連れて行ってくれるか知っている」と比べてみると、ここでは「ある場所に行きたいと望んでいる(hope)」という感覚だけは確かにあるが、その「ある場所」がどこなのかは分からないというやや逆接的なことを述べていると分かります。

 ここまで来ると、何となく前回書いた三葉と瀧の関係を思い出さないでしょうか。「あの人を好きだ」という感覚はあるが、「あの人」の「名」は分からない。「あの場所に行きたい」という感覚はあるが、「あの場所」がどこかは分からない。その意味で、コブとマルのこの台詞は、新海的なある種の関係性を思い起こさせるものだと思います(もちろん前者は人、後者は場所なので完全一致ではないです)。

 ただ、いくら「あそこに行きたい」という感覚があっても「あそこ」がどこだか分からなければやはり不安定さは残るわけで、ノーランはこの点を拾い上げて上手く展開しています。鉄道の場面での「行き先」は、ストーリー上は夢から目覚めた後の、子どもたちの待つ現実ということになるはずです(先にも言ったように、意識の中で死ぬことは現実に戻ることを意味するので)。けれど妻を現実に引き戻そうとするコブですら、実は「どこなのか」を「はっきり」問わないで「一緒だから」という理由でごまかすことで、「現実」を直視していないようでもある。マルは現実に戻ってからも「死んで夢から覚めなければ」と思い続けついに自殺しますが、そのとき彼女はここでの鉄道の台詞を繰り返します(最後の50秒くらい)。

 

www.youtube.com

 

マル:あなたは電車が来るのを待っている。

コブ:マル、おい、やめろ!

マル:遠くに連れて行ってくれる電車を。

コブ:ジェイムズとフィリッパが待ってる![注:この二人はコブとマルの子ども]

マル:あなたはこの電車にどこに連れて行ってもらいたいか知っている。

コブ:あの子たちは待ってるんだ!

マル:でもどこなのかはっきりとは分からない。

コブ:マル、おれを見ろ!

マル:けどそんなことどうだっていい。

コブ:マル、やめろ!

マル:あなたと一緒だからよ。

コブ:マル! こっちを見て!

マル[ 飛び降りる ]

コブ:マル、やめろ!

Mal: You’re waiting for a train.

Cobb: Mal, goddammit!  Don’t do this!

Mal: A train that will take you far away…

CobbJames and Phillipa are waiting!

Mal: You know where you hope this train will take you...

Cobb: They're waiting for us!

MalBut you can't know for sure...

CobbMal, look at me!

Mal: Yet it doesn't matter...

Cobb: Mal, goddammit!

Mal: Because you'll be together.

Cobb: Sweetheart! Look at me!

Mal [Jumps off of the ledge]

Cobb: Mal, no! Jesus Christ! 

ここでの「行き先」は、今度は本当の「死」で、「戻るべき現実」などではないわけです。皮肉なことにこの逆転を、マルを現実に戻すために用意したコブの台詞自体が、「行き先」を曖昧にしたことによって招いてしまっている。アイディアの植え付けが思わぬ暴走をしてしまったというのに留まらず、マルの自殺を許すロジック自体がコブの台詞に含まれていたということになるわけで、妻の死以前の時点におけるコブの弱さが、ここにほのかに表れているでしょう。

 というわけで、ノーランはこうした関係の魅惑と同時に不安定さにも光を当てているように思うのですが、翻って『君の名は。』はどうでしょう。もちろん「入れ替わり」の話ですから、その設定を三葉と瀧の「名前」の不安定さ(不確実さ)が支えているということは言えるでしょう。それから、前回論じた瀧のアイデンティティの希薄さがわざわざ入れ替わっているときに指摘されているというのも、「自分」の不安定さを示すのに一役買っている気がします。他方、意識のなかでのマルとの最後の別れを経てコブを完全に現実に取り戻すことで、この不安定さの崩壊と解消を図るノーランに対し、新海は最後までこの不安定さを温存しながら(携帯に名前を残さないどころか、片割れ時にすら結局名前を書かない!!)、かつ、そうだろうと何だろうと駅で一瞬見かるだけで再び出会うには十分なのだ! という姿勢に見えます。良くも悪くも(前回述べた通りぼくは批判的ですが)、ここは新海のオリジナルな部分と言えるかもしれません。

 

 ちなみにこれは蛇足ですが、最初に触れた『インターステラー』で、ノーランは『君の名は。』 にひじょうに似通った構図の物語を展開しながら、中心にある男女の関係を父と娘に設定し、最終的に両者の年齢を逆転させ、ロマンチックラブの問題は遠い宇宙のブランド博士の星に持ち越させています。主要人物は誰も死んでいないし、奇跡の再開も果たすし、人類も助かるし、れっきとしたハッピーエンド。しかしそれでいながらこのラストには様々なレベルでの微妙なずれ、家族や愛の問題などが詰まっている。ここからも、ハッピー/アンハッピーの二項対立で『君の名は。』のラストを納得しようとするのは不十分だということが分かると同時に、『君の名は。』の安直さが見えてしまうように思います。

 

[1] https://mobile.twitter.com/shinkaimakoto/status/532040860343345153

あまりにも届いているのに届かない(はずの)関係―――『君の名は。』について

 新海誠の『君の名は。』を見ました。新海については、彼の名前も知らないうちから『ほしのこえ』を中学生の時に見ていて、それ以来は付き合いがなかったのですが、今回『君の名は。』公開を機会に彼の主要作品を全部見てみました。あちこちに既視感があるなあというのが『君の名は。』の第一印象(悪い意味ではなく)。ここでは新海のほかの作品とも照らし合わせながら、『君の名は。』の特徴を考えてみたいと思います。

f:id:migeru82:20160929012646p:plain

 

 『君の名は。』は、これまで新海誠が使ってきたモチーフがあちこちで用いられている作品です。例えば冒頭、夢から目覚めて「何かを覚えている気がする」という場面は、『雲のむこう、約束の場所』のラストで、佐由里が目覚めることに成功する代わりに、彼に言わなければと思っていたことを忘れてしまうというシーンに似ている。このモチーフは『君の名は。』の終盤、三葉と瀧が一瞬出会ったあとの場面で再度繰り返されます。また、別々の世界に属する男女という関係性は一貫して新海作品の骨格をなしてきましたが、その距離を空間的にのみでなく時間のずれとして示すというモチーフは、すでに『ほしのこえ』に表れていました。さらに、片割れ時が過ぎて別れてしまったあと、東京で電車に乗りながら虚脱感に満ちた生活を送る瀧を見て、『秒速5センチメートル』の貴樹を思い出した人は多かったはずです。

 このことは単に個々のモチーフの一致に留まらず、これまで新海が扱ってきた人間関係、物語の構造をも明らかにしてくれると思います。『君の名は。』は、これまでの新海作品の自作解説、種明かしのようなものとして見ることができると思うのです。作品の冒頭、最初の入れ替わりが起き、観客にも次第にその仕組みが明らかになっていく。「前々前世」の歌の前後で、入れ替わりが繰り返されながら二人の感情の変化が着実に説明され、やがて二人がお互いを好きになったことがはっきりする。一瞬のキスで永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのか」を理解してしまう『秒速』とは、この点、対称的です。

 さて、こうして二人の間には何が出来上がったのでしょう。それは、その人が誰かを知らないがその人が好きだ、という感覚ではないでしょうか。これは、「誰でもいいから恋がしたい」という類の、関係性自体を求める志向とも違います。特定のある相手と特別な関係にあることが分かっている。ただ、その相手が誰なのかだけが分からない。この意味で、「君の名は」というのはすぐれて示唆的なタイトルだと思います。その相手のことが好きだということは確かに知っている。知らないのは、相手の名前だけなのです。

 考えてみれば、新海誠が描いてきた男女の関係は、多かれ少なかれこの種の超越性を備えたものだったはずです。典型的なのは『星を追う子ども』で、明日菜とシュンの二人は出会う前にシュンの「最後の歌」を介してお互いを知っている。そうしてシュンは自分の歌を受け取ってくれた「誰か」に会うために、命を捨ててまで地上に出てくるわけです。『ほしのこえ』や『秒速』における主人公たちの独特な距離も同じように考えられるでしょう。彼らは特別な相手の存在を<感じ>てはいるけれども、実際の相手とは距離が離れすぎていて、その相手がいま現在「何者」なのかは知りようがありません。

 しかしもちろんこれだけではありません。この前提を作っておいて、次には、瀧と三葉の二人は空間的に離れているだけではない、そもそも別の時間に生きていたことが明らかになってくる。重なっているように見えていた世界が、実は三年の時が隔てる二つの世界だったという構図が浮かび上がってくる。このあたりの情報を順に出してくる『君の名は。』の手際は見事で、多くの人が驚きとともに息を呑んだと思います。

 そしてここで、『秒速』の貴樹と明里の間にあったのも、空間的な距離以上のもの、実は時間的な距離だったんだと気づかされることになる。明里は貴樹と別れてから、新しい男性と付き合い結婚を決めるという直線進行的な時間を生きているのに対して、貴樹は中学生のまま、ぐるぐると円環的な時間のなかに留まり続けている。二人は最早同じ時間を共有していないからこそ、出会うこともないのです。『雲のむこう』ではこれが、通常の世界と、無時間なパラレルワールドという形で示されていました。

 そうだとすると『星の名は。』の新しさは、アイディアやモチーフそのものというより、これまでのモチーフが形成されていく過程を、順を追って示したことだと思います。物語の進行を止めてしまうような「ポエム」も、短篇連作的な唐突さもなく、すでに述べたような二人の関係を着実に明らかにしていく。説明していく。「気持ち悪」[1]くなくなった要因として、単に「ポエム」が消えたということよりも、淀みなく進行していく物語を展開したことが大きかったように感じます。

 今回「自作解説」としての『君の名は。』という観点からもう一つおもしろかったのは、「入れ替わり」可能な三葉と瀧に、実際には対称的な性格が付与されていたことです。二人の人物造形の前提には、糸守町と東京、田舎と都会という対比がある。これが大きく関係してきます。三葉は糸守町から出たいという強い願望を持っている。前半で彼女が「生まれ変わったら東京のイケメン男子にしてくださーい」というようなことを叫ぶ場面がありますが、彼女は「田舎から都会へ」というはっきりとしたベクトルを示します。それに対して瀧には、少なくとも糸守町に行こうと決めるまで、これといって望みがありません。瀧がどういう人物なのかがはっきり描かれていないのでは、という感想をちらほら見かけますが、確かにその通りなのでしょう。彼は東京の人ごみのなかに埋没していて、三葉が持っているような願望、ベクトルを示さない。三葉は実家の行事をばかにされて学校の友達との関係のなかで微妙な孤独を感じているようだが、瀧にはそれもない。三葉は願望や悩みに満ちているが、瀧には中身がないのです。

 だからこそ、彼女の周囲には物語が生じる。物語には、いまいる場所から別の場所へという欲望、方向付けが不可欠です。最も明確なのは、二人の家族の描き分けられ方でしょう。両方とも片親ですが、三葉の家族には一通りの葛藤、物語があります。母の死、父との確執、そこから父との和解へ。けれども瀧の場合は、どうやら父親しかいないらしいことが示される(「今日の朝飯当番お前だろー」)ほか、何もありません。この対比は、映画全体の構造からみれば、三葉と瀧それぞれの、「物語」や「欲望」との関係を典型的に示しています。そういえば、瀧と先輩との恋愛というもう一つの「物語」を進めたのも、実際には入れ替わった三葉だったのでした。

 この対比が、「君の名は」というタイトルが示すアイデンティティの問題にまで関わってくるところがおもしろいと思います。物語の終盤、三葉に入れ替わった瀧が市長である三葉の父親に避難指示を出すよう直談判するところで、瀧は市長の「お前は誰だ」という言葉に大きく動揺します。しかし、計画が上手く行かないことを悲しむならともかく、「お前は誰だ」と問われたこと自体を気に病むのはやや脈絡がないようでもある。けれども、瀧の問題が「中身がない」ことだったのだとしたら。個性がない、自分が何者か分からない人物として瀧を捉えてみれば、そのことを鋭く指摘されて瀧が動揺する文脈が見えてくるでしょう。対して「中身のある」人物である三葉は、今度は自分で父親に談判しにいって、見事に町民の避難を成功させる。瀧ではだめで三葉でないといけなかったという展開は、単なる父娘の問題のみでなく、二人の自己のあり方の対称性を示唆するのではないでしょうか。

 そしてこの対比もまた、これまでの新海作品を支えてきた仕掛けだったと思います。すでに触れた『秒速』における、別れ、別の男性との付き合いから結婚へという直線的な物語を生きる明里と、同じところをぐるぐる回っているばかりの貴樹との対比はその典型ですが、例えば『星を追う子ども』にも同じことが言えます。主人公の明日菜は、一見いかにもジブリ的な「冒険」をしますが(冒険は本来極めて物語的なストーリーを要請するはずです)、実のところ彼女の旅は、映画の冒頭で経験したシュンとの「別れ」を繰り返し確認するためだけのものです。先に未知の希望があるのではなく、結論は最初に出ている。旅を先導するのはむしろ「先生」と呼ばれる森崎の方です。彼には亡くした妻を甦らせるという明確な目標があり、強い意志に満ちた彼に比べれば、明日菜は森崎についていっているに過ぎません。明日菜には望みがないとも言える。だからこそ、象徴的なことに、森崎は最後まで旅を真直ぐ続けるが、明日菜は途中で引き返すことになるのです。けれども、明日菜の旅がおもしろみに欠けるかというとそんなことはない。むしろ、直進する物語を背景にして、それに抵抗するような時間性を立てることが、新海的な人物造形の一端を成しているような気がする。私はこの「物語」と「非物語」の緊張感とでも呼べそうなものが、新海作品の魅力の大きな部分を形成していると考えています。

 なにはともあれ、こうして場所も時間も別の世界に住んでいることを知った三葉と瀧の二人は、片割れ時に一瞬だけ出会うことになる。「結び」や「片割れ時」といったモチーフは実になめらかに繋がっていて、謎解きのすっきり感もある見事な展開だったと思います。しかしその時間は長くは続かず、二人はまたそれぞれの世界に戻らざるを得ない。なのにどういうわけか、二人は最後に出会ってしまうわけです……

 このラストには、新海らしくないという否定的な意見と、『秒速』の鬱屈から抜け出せた! という肯定的な意見とが拮抗しているようです。新海自身もエンディングの問題は気にしているようで、プログラム所収のインタビューで「自分ではハッピーエンド/バッドエンドという考え方をしたことはなかったんですが、『秒速〜』は多くのお客さんにバッドエンドの物語と捉えられてしまったところがあって」(p.20)と、エンディングの受けとめられ方への違和感を表明しています。確かにエンディングをハッピーと取るかバッドと取るかはしばしば微妙な問題で、常識的には不幸な結末が見方によってはハッピーエンドだということも十分あり得る。ただ、ハッピー/アンハッピーとは少しずれたところで、出会えるか/出会えないかという点について考えれば、『君の名は。』のラストは流石に強引だったのではないでしょうか。

 ここまで分析してきた通り、『君の名は。』はこれまで新海が用いてきた道具立てに満ちています。根本的には新しいアイディアはないと言ってもいいと思う。実際一瞬の邂逅ののち、電車に乗りながら鬱屈した日々を送る瀧の姿に、「やっぱり……」と『秒速』の貴樹を思い出した人は多かったはずで、しかもここまではある必然性を備えているわけです。というのもこれまで分析してきた新海のモチーフは全て、「二人が実は別の世界に属していること」を示すものだったから。名前を知らない相手への愛も、時間の隔たりも、直線的な物語との関係の差も、すべて二人が別々の世界の住人であることを明らかにする装置だった。少なくとも新海はこれまでどの作品でもそう結論を出していたはずです(『言の葉の庭』ですらそうでしょう)。それに対して今回は、こうしたモチーフの全てを温存しながら、結論だけすげ替えている。しかしそんなことが出来てしまうのなら、これまでの作品で示してきた結論は何だったのかということになってしまうのではないでしょうか。ここで問題になっているのは、ハッピーエンドかバッドエンドかという二項対立ではないと思う。100分かけて示したはずの「出会えなさ」を最後の数分でひっくり返す強引さ。「出会える」という結論を出すならば、それはそれで過程がなければならないはずです。この過程を示さずただ「出会わせて」しまうのなら、それこそハッピーエンド好きかバッドエンド好きかという観客の嗜好で判断するしかなくなってしまうのではないでしょうか。

 

 というわけで、物語の洗練という意味ではすばらしい出来だと思いましたが、物語の完成度という点で、私としては『君の名は。』を新海の最高傑作とは評価できないなあという結論です。個人的には『星を追う子ども』がこれまでのベストだと思っています。

 なお、物語の完成度という点については、これは雑感という感じですがもう少し思うところがあるので、後日付け足したいと思います。

 

 

[1] http://diamond.jp/articles/-/102665?page=4